町中で見なくなった花

思い返してみると、子供の頃にはアスファルトの隙間から元気に育っていた春紫苑も高校を過ぎたあたりから見た記憶が途絶えている。
たんに私が見落としているだけならばまだよいのだが、町中で咲く花が極めて人の手によって管理されたものだけになってきているという印象が強く、その原因の一つに「昔よりも道路の舗装がしっかりしている」というものが思い当たった。
昔の道路はアスファルトが割れて水が溜まっていたり、道路脇には隙間があり、そうしたところから植物が芽を出していた。
そうしたものが減ったために、町中で生える場所が、花壇だとか植え込み、街路樹の根本ぐらいになり、そうした場所は定期的に人の手が入るために雑草として刈られて見なくなっているのかもしれない。
後日、少し街中から離れた所に行くと見ることができたためやはりそういうことなのだろう。


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