見た記憶が途切れているチューリップ

そういえば最近あの花を見た記憶がないなと思い、最後に見たのはいつだったかと思い返して見るが、数年以内に見たという記憶がまるで出てこない。
なんのことはない、誰もが知っているであろうチューリップの花の話で、さらに記憶を遡ると最後に見たなと思い出すのは小学校か中学校ぐらいにしか記憶にない事に気づく。
もはやどんな形だったかすら細かく思い出せず、よくある小学生のお絵かきに登場するような形状しか思い出せない有り様だ。
子供の頃に比べると花を見る機会が明らかに減ったのか、ここ数年で見た記憶がある花はタンポポ、ツツジに金木犀、彼岸花にパンジー、同じマンションの敷地内に咲いていた紫陽花に、ご近所さんが夏に育てていた朝顔、自分で育てたカモミールぐらいなものだ。
活動する場所が変わったことも理由なのだろうが、学校や通学路がそういうものに触れやすい環境だったことは間違いないだろう。


活動範囲内の草花に目を向けて+1!

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町中で見なくなった花
思い返してみると、子供の頃にはアスファルトの隙間から元気に育っていた春紫苑も高校を過ぎたあたりから見た記憶が途絶えている。たんに私が見落としているだけならばまだよいのだが、町中で咲く花が極めて人の手によって管理されたものだけになってきているという印象が強く、その原因の一つに「昔よりも道路の舗装がしっかりしている」というものが思い当たった。昔の道路はアスファルトが割れて水が溜まっていたり、道路脇には
今になってわかる小中学校の花壇の多さの意味
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更に減っていくと思われる道路脇の草花
今後更に街中の整備が進んでいくと、もしかしたら街のそこかしこで見られたねこじゃらし(エノコログサという名前が正式らしい)すら見ることが減っていくかもしれない。私の住んでいる場所がそういう傾向にあるだけかもしれないが、現状でもすでに昔ほど沢山のねこじゃらしは見れなくなってきている。今後は更に、意識しなければ目にしない草花が増えていくのだろうと思うと、街中が便利になる反面で少し寂しさを感じてしまう。こ